Sunrise Japanese Church

「春の泉」の著者、岩田春子牧師のロサンゼルスにある教会です。

記事一覧(29)

サンライズ教会 2018年イースター

『日曜日の明け方早く、待ちかねた女たちは香油を持って墓に急ぎました。着いてみると、どうしたことでしょう。墓の入口をふさいであった大きな石が、わきへ転がしてありました。中へ入って見ると、イエスの体は影も形もありません。「いったい、どうなってるのかしら。」女たちは途方にくれました。すると突然、まばゆいばかりに輝く衣をまとった人が二人、目の前に現れました。女たちはもう恐ろしくて、地に伏したまま顔も上げられず、わなわな震えていました。その人たちは言いました。「なぜ生きておられる方を、墓の中で捜しているのです。あの方はここにはおられません。復活なさったのです。」』ルカの福音書 24:1-5女たちは亡くなった人を捜していました。イエスキリストの死体が墓の中にあると予想していたからです。しかし墓に着くと、輝く衣をまとった人からイエスさまは違う場所にいると告げられます。神の使者たちは大真面目に「なぜ生きておられる方を、墓の中で捜しているのです。」と聞きましたが、この質問も違う意味では、明らかにそこにあるはずの無いものを捜している人たちに対するおどけた皮肉のようにも取れます。同時にイエスさまが十字架と復活についてお話しなさったことを理解していなかった、信じきれていなかったという事を指摘しています。場所の事ばかりに集中し、その先にあるものに目を向けようとしないという事は、私たちも生きたイエスキリストを違う場所で捜してしまっているようなものです。実際に、墓へ行った女たちのように、イエス様が死んでいるとみなされるような場所、すなわち悲しみが喜びを覆い隠し、闇が光よりも勝り、死が生を支配しているような場所に、いつのまにか置かれてしまうことがあるのです。私自身、そういう悲観的な場所を体験する事が最近ありました。しかしそんな場所でさえも、神さまは生きていて勝利していることを知りました!私の妻、春子牧師は十二月中旬ごろ肺炎で入院しました。私と息子と娘は1〜2週間、地域のリハビリセンターで過ごせば、また元気になって家に帰って来て、病気になる前の生活に戻れると思っていました。しかし過去五年間取り続けた免疫抗生剤と、首の手術による神経障害がこんなにも彼女の回復力を弱めていたとは、知る由もありませんでした。感染症と浮腫(水ぶくれ)が彼女を衰弱させ、あらゆる医療処置も最初は希望をもたらしてくれましたが、だんだん悪くなっていく状態を阻止することも、元に戻すこともできませんでした。リハビリセンターに来て一ヶ月が経ったとき、彼女はまた病院に戻る事になりました。そこで一時期状態が落ち着いたので、五日間ほど家に帰ることで元気を取り戻し、回復に向かって欲しいという希望を持って家に帰ったものの、ますます状態が悪くなったため再入院する事になり、医師から肺炎をぶり返していると告げられました。生命維持装置を付けた状態で集中治療室に入って一週間後、教会のメンバーと親しい友達が病院のベットの周りに集まっていました。私と息子を含め、みんなそこに集まっていましたが、娘のジーナだけが昼食を取りに席を外していました。妻の心拍が不規則になりなり、急激に弱まって来ている事に私は気がつきました。もうじきその時が来ると思い、娘に電話をしました。まるで春子は意識が無いながらも、頑張って持ちこたえているようでした。ジーナが病室に戻って来て、母親の手に触れたその少し後、心拍が止まりました。伝道者の書 3:2と3:11にあるように「何事にも定まった時があります。生まれる時、死ぬ時」「あらゆることには、ふさわしい時というものがあります。」そこに居た人たち全員が、すばらしい神さまのタイミングを感じる事ができました。本来なら私が数時間後に生命維持装置を外すという決断を実行する必要がありましたが、そうではなく、妻が自分で天国に向かうことができた事を神さまに感謝しています。まさに神さまのタイミングです。奇跡的なタイミングで息を引き取った妻を見て、すべては神によって決められているのだと再確認しました。四十二年間連れ添った妻は今、痛みから解放され、彼女が愛し、仕えた神さまと共にいます。サンライズ教会の牧師、メンバー一同、みなさんがこのイースターの時期にイエスキリストの存在を身近に感じられるよう祈っています。ポール岩田牧師より

Easter Newsletter 2018

“On the first day of the week, very early in the morning, the women took the spices they had prepared and went to the tomb. They found the stone rolled away from the tomb, but when they entered, they did not find the body of the Lord Jesus. While they were wondering about this, suddenly two men in clothes that gleamed like lightning stood beside them. In their fright the women bowed down with their faces to the ground, but the men said to them, ‘Why do you look for the living among the dead? He is not here; he has risen!’” -- Luke 24:1-5The women were looking for one who was dead, expecting to see the body of our Lord Jesus Christ in the tomb—the place of the dead. But when they arrived at the tomb, they were told by the men in gleaming clothes that their search for Him was in the wrong place. The messengers of God must have been dead serious in their question, “Why do you look for the living among the dead?” Though in another sense, their query could be taken with facetious irony of looking in the wrong place for what obviously would not be there, but also centrally points to their lack of faith in and grasping of what Jesus said and meant during his discourses before the cross about his rising again. Often, we find ourselves looking for a living Jesus Christ in the wrong places if we only get focused on the places themselves without looking beyond them to what is unseen. In actuality, we, just as the women who went to the tomb, find ourselves in places where Christ would be assumed dead such as where sadness looms over joy, darkness prevails over light and death reigns over life. I found myself in such a place of doom and gloom recently. But I found that even there, God is alive and victorious! My wife, Pastor Spring, was hospitalized in mid-December for pneumonia. We, including my son and daughter, thought that after a week or two at a local rehabilitation center that she would be up on her feet back to the life at home that she had before her sickness. Little did we realize the toll that the last five years of taking immunosuppressant medication and the neuropathy from a neck surgery had upon her resilience to bounce back. Infections and edema (water retention) brought her down and all of the medical measures in which we felt hopeful at first were of little avail to arrest and reverse the week-to-week decline in her condition. After a month at the rehabilitation center, she was readmitted to the hospital, and then after having her condition was stabilized, spend five days at home with our hope of her getting her spirits up and seeing her improve. Instead, she declined further and was hospitalized, and diagnosed with a relapse of pneumonia. After her being a week on life-support in intensive care, church members and dear friends were gathered around at her bedside. Everyone was there including myself and my son, except for my daughter, Jena, who stepped out for lunch. I noticed that my wife’s heart rate became erratic and began to decline rapidly. Sensing that her time was near, I called my daughter. It seemed as though Spring, unconscious, was holding on and amazingly, when Jena entered the room and touched her mother’s hand, just moments later, her heart stopped. As Ecclesiastes 3:2 and 3:11 state, “There is a time to be born and a time to die,” and that “God has made everything beautiful in its own time.”For all of those present, there was an awesome sense of divine timing. In just few hours later, I would have had to execute our decision to remove life-support, but I am grateful to God that my wife went on her own. Again, the Lord’s timing. The miraculous timing of her last breath reassured me of God being in control of everything and that my wife of forty-two years together was now free from pain and with the Lord whom she loved and served.The pastors and members of Sunrise Church pray for the experienced presence of the Lord Jesus Christ in your life during this Easter Season. --- Pastor Paul IwataOn behalf of the pastors and members of Sunrise Church, we pray that you have a blessed Easter! --Pastor Paul Iwata

映画 『沈黙』を見て  岩田春子

     グレンデール モールの劇場で、「沈黙」の映画を主人と見に行った時の事である。遠藤周作のこの作品が日本でベストセラ−に成った頃読んだが作品の中でキリストの顔の肖像入の踏み絵を吉次郎が踏んで逃げ出す所が強烈な印象を受けたが,後は殆ど覚えていなかった。映画は、17世紀にキリスト教禁止令が出された江戸幕府を背景に,井上と名乗る長崎のお奉行役員があの手この手を使い宣教師達に作戦的に踏み絵を踏ませ転ばざるを得ない状況に追い込んで行く。宣教師のロドリゴ(映画の主人公)は自分だけの為ならいつでも殉教の覚悟は出来ていたが、カトリックの信徒達が痛々しく張り裂けるような拷問を受け、十字架の磔に曝され,殺されて行く姿を見るに見かねて、「踏み絵を踏め,踏んで生きるのだ、転べ,転べ、転ぶのだ。」と叫びつつ自分が見本と成って踏み,転んでしまう。と言う筋書きであった。主人と結婚してまもなく、「もし踏み絵を強制されたら,貴方は踏むの,踏まないのどうするの」と聞いた事があった。彼は、「その場に成ってみなければどうするのか分からない,何とも言えない」と答えた。私は即座に、「私は決して踏まない,譬え死んでも。。。」と答えた事があった。だが映画のように戦略的で作戦的だと自分もどうなるのか分からないと思わされた。日本のキリスト教は1%足らずでのび難いと良く言われているが其の理由は極めがたいが,歴史的にも,個人的にも良く転ばされたり,転んで行く信徒を見かける。第二次世界大戦の時,相手アメリカがキリスト教国なので、勿論英語カタカナや宗教も禁止された。軍の命令で牧師、教会に戦争が終わる迄,日本国の宗教を名乗れと言われ,殆どのキリスト教宗派が其れに従ったと言う。従わなかった人達は石打ちにされたり,牢獄にぶち込まれたりしたようである。ある日,韓国の牧師に次の様に言われた事がある。「日本人は葬式は仏教、結婚式はキリスト教,お祭りは神道で,之を旨く調合出来る不思議な民族だ」と言われても別に,文化、カルチャーだと思えば何でもないことだと思っていた。だがある日牧師たる方が,あっちに頭を下げ,こっちに頭を下げ、人ずきあいだと言うのを聞き、キリストは我が罪の為十字架に迄おかかりになられ、我に永遠の命をお与え下さった生ける犠牲を思う時、キリスト以外の神でもない神々を拝む事は,夫以外の男に走るようなもので霊的姦淫に等しい事を知ってからは、献身の意味をより深く理解出来る様に成った。神は決して「沈黙」しておられるのではない。今も生きておられ,祈りを聞いておられ,信ずる者たちの心の中に聖霊により住んでおられる。映画の帰り、「踏んで転んでしまつた」主人公の顔がちらつき、周囲を見渡すと、チャイニーズニユーイヤーズの飾り付けの大きなドラゴンや古い大きなヘビが大きな口を開けて飛び掛かってきそうな雰囲気で,まるで聖書のアダムとイブをまんまと騙したサタンの様にも見え、ロドリゴを転ばしたのもサタンの罠に。。。と呟きつつ雨上がりのモールを歩いていたとき、右足が縺れ、すってんころりと滑って大勢の人々の前で転んでしまった。後で気がつくと、アブラムシの様に頭を地面に就け足をばたつかせていた一瞬真っ暗に成り、周りの状況が掴めないでいた。3、4人の男性達が私の頭の方にしゃがみ、「Are you O.K? May I help you!」と案じていた。しばらくして、ゆっくり立ち上がり歩き出してみた。コーヒーを飲んでいる人々、スイーツを楽しんでいたあらゆる人種の方々が一斉に心配そうに私を視つめていた。穴があれば入って隠れたい所だが、右足がピリピリ痛み、ビッコをしながらやっとの思いで車にたどり着き、自分はなぜ転ぶ映画を見て転んでしまったのだろう。自分の信仰も弱く古びて、もろく成って来たのだろうかと思案しつつ家に帰り着き、息子に 「映画館の近くで、マミーね 転んでひっくり返っちゃったのよ.転ぶ映画を見てさ、未だに痛い,痛いよう」と顔を歪めながら、ああだった,こだったと,手足を上げて説明していると、彼がケラケラ、ケラケラ大声で大笑いをしながら;「マミーは愛すべき役者だね,映画を見るより今の実演の方がずーと面白い。」と俳句 枯れ野原、緑吹き出す、春の庭   白い滝、無数の光り、秋空に短歌アメリカが、2つに分かれ,若者は、夢を失い、さま酔い迷うソロモンの,宮での祈り、トランプも、知恵が欲しいと、政権統治