ビリーグラハムとステーブ マックイーン

  カリフォルニヤのモントレーの郊外でインターナショナル モーターサイクルショウを見に行ったことがある。その日には世界一を決定する競技が見られるということで世界中の町々や村々から、モーターサイクル ファン達が集まって来た。7月のモントレーの街の隅々のレストランやコヒーショツプは立ち並ぶ客で押しつぶされそうなくらいであった。ブブン、ブブン、キキー、キンと汗だくの今まで見たことのない大勢の若者達の乗り回す騒音もその若々しさとカッコよさ、こんなにも沢山のモーターサイクルを今まで見たことがなかった。筋肉溌剌とした健康美の男女が乗り回していたのは、川崎、鈴木、本田、ヤマハなどが目につき、なんとなく誇らしげになっていた。ドイツ製はやはり、しっかりしていて丈夫そうであった。

  いつの間にか自分もモーターサイクルに又がりたくなって来た。別に乗れるわけではないが誰かの背中に捕まって走ったことは何遍もある。顔じゅう風と土で綻び、そのまま草原を脱走?して欲しかったのに。。。。ステーブマックイーンの「大脱走」の映画の中で彼が逃亡中に乗っていたドイツ軍のTR6バイク、とにかくスリル満点、あっ!あっ!ワーオと唾を飲むほどの回転の見事さ,彼の不良ぽさ、ブロンドの碧眼、味があり、渋く男が憧れる男、銀幕のアクションスター、キングオブクール。ブッキラボウで怖い感じ、刑務所の独房の中のステーブもなんとなく魅力的、あれほど無表情なのに圧倒的な演技振り、どこか遠くを見つめ孤独の影りが漂う。

   マックイーンは1930年ミネアポリスに生まれ、アクションスターとして世界中のファンを熱狂させ、あまりにも高い人気のゆえにトップスターの座にとどまり続け、今日に至るまで彼の人気は衰えず、最近、又々彼の人気は再炎し出し永遠のアクションヒーロースターと呼ばれるこの頃である。父親は曲技飛行パイロット、母親はアルコール依存症で、マックイーンがわずか6ヶ月の時、両親は離婚している。母親は息子の面倒を見ることが出来ず農業を営んでいたマックイーンの祖父母に彼を預ける。そこには優しい叔父がいて我が子のようにステーブを可愛がった。彼が4歳の誕生日に叔父からのプレゼントとして、「赤い三輪車」が贈られた。やがてこのプレゼントがレースに関心を抱くきっかけとなる。後々になっても彼は叔父には「お世話になった,色々と教えてもらった」と感謝している。

   8歳の時、母親がステーブを連れに来、ボーイフレンドを紹介し、新しい継父と暮らすようになる。継父はステーブを殴り飛ばし、叩きつけ、母親にもどこと構わず暴力をふるった。やがて彼はギャングの仲間入りをし、窃盗で何遍も刑務所を行き来しながら、独房生活中、父はなぜ自分を捨てていったのかと憎しみと孤独に悩むようになるがサーカスに入り生活を繋いでいた。

   12歳の時、母親は3度目の再婚をし、ロスアンゼルスに息子を呼んで暮らし始めたが新しい継父と直ぐに衝突した。少年ステーブは、愛に飢え渇くが与えられず、逆にケンカ、盗み、逮捕、退学で心は干からびていた。継父は彼をチノヒルズにある少年院に入所させる。そこの院長に、「人を恨むより世の中に役立つ男となれ、君には人より優れた才能がある。」と言われ、彼はそこでよく働き模範生となる。後は俳優として有名になってから、少年院に多額の献金をし、定期的に少年達の話し相手となった。16歳で少年院を出所し、ニユヨークの母親の元に戻ったが又や転々と職を変えていく。その間、海兵隊へ入隊、バーテンダーなどをしながら、どこかに今も生きているであろう憎い父親に逢って、なぜ自分を捨てて行ったのか聴いてみたくなる衝動に駆られていた頃、ある日ガールフレンドに、「あなたはユニークだから映画俳優になるといい」と励まされるが、考えてもいなかった事なので一時戸惑う。

   早速彼はニユヨークで 最も有名な名門校プレイハウスに入門する。ジエ —ムスデーンやポーロニユーマンもここで学んでいる。週末にはシテイ レイスウエイで行われるレースに参加し賞金を稼ぎ最初のバイクを購入する。彼はブロードウェイで25歳の時、映画俳優としてデビューし、ニユヨークを離れロスアンジェルスのエコーパーク通りに住み、ハリウッドでの俳優の仕事を探す。間もなく彼は数々の映画に出演するようになり、早撃ち拳銃のテクニックを学び西部劇役者として唐突した覇者となり世界中を騒ぎ立たせる。1960年の「荒野の7人」(*この映画は黒澤明の7人の侍からヒントを得たと言われている)でマックイーンは主演俳優の一人となるが、共演者のユル ブリンナーは拳銃を抜くステーブの早業に度肝を抜かれ悩まされる。

   非常に複雑で、不幸な生い立ちの、世界のトップスター天才アイコンと呼ばれたステーブにもやがて死の病が襲いかかって来た。晩年になって父親の本性を理解しようと思うようになり、父親が操縦していた飛行機(バーンストーミング、飛行機の上で曲芸をする空中サーカス用)を作り毎日のように載り飛ばす。その頃すこしずつ父を理解するように成って来ていた。彼は父を探して会いに行くがその時はすでに亡くなっておられた。自分を捨てた母にも会いたくなり時間を見つけて会いに行こうと思っていたら、「母危篤」の知らせを受け跳んで行く が母親はすでに亡くなっておられた。

   マックイーンの3番目の妻、バーバラ ミンテの自著にマックイーンが晩年にキリスト教の福音主義に改宗した事を次のように述べている。彼はベンチュラの宣教師教会に出席し信仰者となっている。最近現役の卓越した牧師グレグロウリー伝道師が,「ステーブマックイーンの魂の救い」という本を出版し「キングオブクールの最後の霊的変貌」という映画も作製している。今日最も神に近い人と呼ばれていて、世界中を伝道して駆け巡り、現在98歳の現役中のエバンジェリスト(福音伝道師)ビリーグラハムがカリフォルニヤの病院でマックイーンに直接会って語っている。ステーブがグラハムに聖書が欲しいと言うと、グラハムは自ら使用中の皮ブチの聖書に、「我が友ステーブよ、神が貴方と共にいて何時も祝福してくださいますように。ピリピ1:6」と書きサインをし、手渡そうとすると気の毒にも病との戦いで急に大きなシワが出て皮膚は干からび、すっかり疲れ切ったステーブがそこにはいた。だが瞳を見るとまだギラギラしていて、かの勢いの良い俳優の手を固く握り握手を交わし立ち去ろうとすると,マックイーンが言った、「天国で貴方に又会いたい」と。ステーブが亡くなった時、グラハムがプレゼントしたバイブルを胸に抱いて静かに息を引き取ったと云う。

   1980年11月7日50歳でこの世を去ったステーブは亡くなる5日前に奥さんに次のように語っている、「もっと生きて自分が変わったように、他の人々をも変える事が出来ればと思う。自分が全く変えられた事を皆んなに証したい」と語った。この間、日本からやって来たお友達を連れてハリウッドのチャイニーズ劇場を案内していると、マックイーンの星形とビリーグラハムの星形をも見つけ有頂天になった。マックイーンが探しに探していたのは父なる創造主だったに違いないと思うと心が弾み、急に晴れやかな気分にしばし浸った。

短歌

   ハリケーン 暴れ狂うか いつまでも  神のみ声で  静まりたまえ

   華やかな  優雅な顔で  語りたる  声に棘あり  女侍


岩田春子

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